ある若き詩人のためのレクイエム
こんにちは、長坂です。
「夏フェス」
このキーワードは夏を遊びきる時に重要なワード。
僕もこの夏フェスは欠かせません。
「サントリー・サマーフェスティバル」
こちらに先日遊びに行ってきました。
日本では数少ない現代音楽に焦点を当てたフェス。
刺激的な故、僕も毎年楽しませて頂いています。
そして今年は凄かった・・・
23日に行った「ベルント・アロイス・ツィンマーマン」の「ある若き詩人のためのレクイエム」
もはやこれは事件でした。
ツィンマーマンのパーソナルな部分はここでは書きませんが、是非調べて頂けたら彼が如何に真面目で、故に時代に翻弄された作家かがすぐに見えてきます。
今回のこの楽曲、そんなツィンマーマンという人間の真面目さの集大成のような濃密さでありました。
まず編成がとても特殊。
ヴァイオリンとヴィオラの無いオーケストラに、ジャズのコンボ、ナレーター2人、歌手2人、3部の合唱グループ
、オルガン、テープに録音された声、総勢200人という壮大なもの。
冒頭、蠢くような低音から始まり、そこにまず絡むのは「声」
しかもこの声は予め録音されたモノで、僕らを取り囲むように設置されたマルチチャンネルのスピーカーからそれが鳴らされていました。
録音された「声」や「音楽」
これがこの楽曲の大きな力を創っていました。
アイスキュロス、ウィンストン・チャーチル、スターリン、クルト・シュビィッタース、ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン、ダリウス・ミヨー、ウラジミール・マヤコフスキー・・・etc
これはあくまで一部でしかありません。
様々な詩人、政治家、音楽家、文学者、哲学者の著作からの抜粋や演説、音楽が洪水のように流れこんでくるのです。
それは丁寧に一文一文聞き取れるような音でなく、同時に様々な音がぶつかりあって文章として聞き捉える事は出来ず、記号と声は僕を混乱させました。
オーケストラの出す音も非常に短い音の連続で、スピーカーから流れる言語と重なって空間には細かな粒子のように、それらが充満していました。
その裏では静かに蠢く低音が時たまに、耳へ入ってきます。
その混沌とした中に、登場するのがジャズ・コンボ。
これが非常に重要でした。
とても熱く激情的な演奏は突如、その空間にパッションを生んだのです。
もはやこの瞬間に、空間内には誰ともいえぬ「ある若き詩人」が誕生していたのでした。
スピーカーから流れる様々な芸術や哲学や政治的な情報。
音が作りだしていた内的な空気。
そこへ来てジャズの持つパッション。
まるで大きな音の竜巻の中に、渦を巻いて言語や細かな音達が吸い込まれていくような力のイメージでした。
もう「若き詩人」を産み出すには充分な力が揃っていたのです。
ナレーター二人、歌手二人は、その若き詩人が探す言葉のようでした。(まだ詩では無い)
言語に意味を与えるのは人間。
このそれぞれがソロでなく、二人というところが非常に印象的で、
同じ言葉でもその言葉に対してどの立場や方向からそれを理解するかによって、その言語が持つイメージは変わるように、そんな不安定なダブルのイメージがここに感じられました。
そんな不安定な「言語」の中に「詩」を発見していく中で、この空間に産まれた詩人は、オーケストラから欠如したヴァイオリンとヴィオラの音を総括するように、詩的にその役割を果たすのだと感じます。
しかし、産まれた詩人は、産まれながらに合唱隊が歌う「レクイエム」によって葬送されていくのです。
最後は産まれながらに葬られる若き詩人のイメージが、その音の渦の中心に燃え、虚無感のカスのように残る、そんな沈黙で楽曲の幕を閉じました。
その燃えカスに、
日本のシュルレアリスム詩人、
西脇順三郎が1947年の詩集「旅人かへらず」の端書きで、
『生命の神秘、宇宙永劫の神秘に属するものか、通常の理知や情念では解決できない割り切れない人間がいる。 これを自分は、「幻影の人」と呼びまた、永劫の旅人とも考える。 』
と書いたその「幻影の人」を僕は思い出しました。
それほどまでに深淵なツィンマーマンの音に、手の届かない虚無感を感じたのでしょう。
この素晴らしい講演が終わったその瞬間から、もちろんまた僕の日常は始まっています。
僕は洋服屋で、ブルードレスのメンバーです。
それが自分の創造の日々です。
そして、この楽曲がまたそんな日々を大きく動かしてくれそうです。
ツィンマーマンが「ある若き詩人」を産み出したように、僕も自らの日々から詩人たる「幻影の人」を産み出したいと、心から渇望しています。
最後にこの講演の実現に関わった全ての方々に、最大級の感謝と尊敬をお伝えさせて頂きたいです。
大変貴重な機会を本当にありがとうございました!