DADADADADADADADADADADA
「新聞を用意しろ
ハサミを用意しろ
つくろうとする詩の長さの記事を選べ
記事を切りぬけ
記事に使われた語を注意深く切りとって袋に入れろ
袋をそっと揺り動かせ
切りぬきをひとつずつとりだせ
袋から出てきた順に一語ずつ丹念に写しとれ
きみにふさわしい詩ができあがる
今やきみはまったく独創的で魅力的な感性をもった作家というわけだ
まだ俗人には理解されていないが」
フランスの天才詩人トリスタン・ツァラは、
「帽子の中の言葉」 (1920年) という文中、ダダイストの詩作の方法として上記の手順を紹介しています。
こんにちわ、長坂です。
そんなダダが発起してから今年で100年を迎え、世界中で静かな再熱をみせています。
ブルードレスの根底にあるモダニズムにおいても重要なファクターであるダダは、社内でも今一番の話題で、
こんな機会にと思い、ダダに関して思うことを少し書かせて頂きました。
そもそもダダとは一体何だったのでしょうか?
当時、第一次世界大戦の戦禍から逃れるようにして、チューリッヒにはヨーロッパ各地から若い芸術家達が集っていました。
期待の新世紀は大戦によって、恐怖と虚無へ早々にすり代わり、感受性豊かな若き芸術家達はその耐え難い状況の中で、使命感を喚起させました。
物質的にも技術的にもより豊かに、
そして社会体系もより成熟し、整備されているはずの20世紀に起きる不和。
一体何が秩序なのか?
そもそも知性や論理など、世界の何処にあるのか?
大戦後さらに加速したフランス・ブルジョア社会のデカダンスも助走とするように、ツァラの冒頭の詩作法は、
そんな秩序や倫理のベールを剥ぎ取る、ダダのダダたる、あまりに過激な作用を突き付けてきます。
しかし、
ダダイスト、トリスタン・ツァラのこの詩作法を、真に受けてはなりません。
彼は「ダダ宣言1918」の中でこう書きます。
『ダダは何も意味しない』
始めからそこには人を食ったように、全てを嘲笑う、手に終えない、無作法なダダイストの視線と行為があり、
それは否定や破壊や反語も「すり抜け」、
意味のない行為の輪郭だけを残します。
故にこの詩作法自体に「意味」を見いだし、作品価値の理解を気取るワケにはいかないのです。
ダダイスト達はこのノリで「詩」以外にも、「絵画」「写真」「立体」「映像」「パフォーマンス」と総合的な反芸術運動として拡大していきます。
その現場となったのが、
「キャバレー・ヴォルテール」という場所。
1916年2月、ドイツ人の文学者フーゴ・バル(ダダの首謀者の一人)が、スイス・チューリッヒの小さなレストラン跡地にオープンしたここは、ヴォルテールと付いた名もあってか、若き先鋭的な芸術家達が、オープンからこのキャバレーに集います。
その中には
ハンス・アルプ、
マルセル・ヤンコ、
リヒャルト・ヒュルゼンベック、
といった当時でも最もハードな芸術家が顔を揃えていました。
ここでは毎晩のように「DADAの夕べ」と題した、無意味な詩の朗読、音楽、パフォーマンスなどの発表が繰り広げられます。
ちなみに先出のフーゴ・バルもここで詩を読んでいて、「音響詩」という特徴的な表現を残しました。
彼は不可解な造語を並べ、
ボール紙で作った奇抜な衣装を纏い、
呪術的な儀式のように厳かに、意味のない言葉を、あたかも意味ありげに読み上げるのです(笑)※写真参照ヤバいです
そんな狂乱のような日々が続くのも、
スピード閉店までのたった4ヶ月の間でしたが、その「無意味の影響」はチューリッヒ以外にも、
ベルリン・ダダ、
ケルン・ダダ、
ニューヨーク・ダダ、
ハノーヴァー・ダダ
パリ・ダダ
とあっという間に拡散していきました。
ちなみに極東の地、日本にも高橋新吉を中心としたダダイスト詩人達がほぼ同時代に活動をしていたくらいです。
これ程の影響力を持った運動は、同時代のアート・シーンにおいても類を見ません。
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と、まぁあんまダラダラ書いてもなんなんで、最後に僕がダダのダダらしさを強く感じる、1918年頃のツァラの詩の一行を添付しました。
『二十五の詩篇』収録「無関心な頭脳」
〈 寝台車の中で私はワセリンを撫でた〉
この一行に、リリスムは一切介入しません
サラりと読めてしまうかもしれませんが、詩の前部、後部が互いに静かに関係を引き離そうとしています。
イビツな滑らかさに満ちた、イメージの形態はまさにダダの持つ性格を端的に表します。
こうして関係を切り離された言葉は概念だけを残し、 危うく時代を漂流し続けます。
『ダダは何も意味しない。』
そんな風に言っておきながら、
その厚かましい存在感は、
現代さらに際立ってきている様に感じます。