ブルードレス通信「春のコート」
うすもやの霧の中で海を見ると真っ白い海と空の境も解らず、
対岸に何があるかも分からない。
そこに一艘の船が姿を見せると途端に霧に包まれた風景は具体的な海景画となり、
頭の中に現実の世界が出現する。
彼はシンプルな形のラペルがないコートに、お揃いの生地で作ったつばが狭い帽子をかぶっていた。
昔から知る彼を見つけ、話かける。
「久しぶり」
「相変わらずだよ」
彼はそう返事を返す。
やがて夜が来て、対岸の海景には明りが灯り、
我々はもっと長く話をしていたことに気づく。
そして、明かりが消えた時、我々の目の前から海も空も消えて、
我々は夜の闇に見えないものを見つけた。
「明かりが無いと自分が何を目標にしていいか分からなくなる。
実は対岸の明かりが目印だった」
明かりがあるとき僕達は何処に舵をとるべきか、自分がどこにいるかを知ることが出来たが、
今僕たちはまるで何処にいるかわからなくなってしまった。
目印になる目標が消えたからだ。
「君の着ているコートは君に似合っているね」
「そうかな、ありがとう。
でもこのコートを着ていた人達は似合う似合わない等考えもせず、この服を着ていたんだ。
そうする理由があったからね。
僕にはその理由が無い。
僕は意味無く着ているんだ。」
「朝になればまた向こう岸が現れ、僕らは自分を思い出せるよ」
「そうだね、いつ夜が明けるか分からないけど、明かりは消えたばかりだ」
翌日、確かに朝が来た。
僕は対岸に何時も通りの風景をみた。
僕は昨夜、彼の着ていたコートが気になり、
似たものを持っていたのを思いだしクローゼットを漁ってみた。
フランス好きの彼が着る服を真似て、僕が着る。
僕は、意味無く着ている彼が着ていた服を、着るんだ。
僕は彼のように自ら対岸の明かりになりたいと思ったからだ。