チャリティ45

こんにちは。
大阪店gold vesselのイズミです。

僕はノーザンソウルのDJをやっているのですが今、関西のそんな仲間でお金になりそうなレコードを持ち寄りオークション出品してその売上を東北関東大震災義援金として寄付しようと動いていて、昨日の休日もその作業やミーティングを行っていました。
被災地の一日も早い復興を心から願ってなにかをしていると、自分自身も前向きな気持ちになります。


ところでそのノーザンソウルって何?と非常によく聞かれるので、前にフリーペーパーに書いたノーザンソウルについての文章を興味があったら読んで下さい。長いですが・・・

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アメリカ南部産のソウルミュージックをサザンソウルと呼ぶのに対し、北部産のソウルミュージックをノーザンソウルと捕らえる認識が未だに蔓延っているが、ノーザンソウルとは60年代後半に端を発したイギリスのアンダーグラウンドカルチャーである。イギリスでは首都ロンドンを中心に流行が移り変わり、50年代末ロンドンで生まれたモッズも64年に流行となり、66年にはほぼ終わった。ロンドンでは66年にモッズブームが終わり、新たな流行としてサイケデリックが始まったが、このマスメディアにコントロールされたサイケデリックと言う流行は、白人貴族時代に回帰する赴きがあった。面白くないのは北部の労働者階級の連中。彼らはスイングするロンドンに冷ややかな視線を送り、モッズ時代から始まったマイナーでレアな黒人音楽で踊るライフスタイルを頑なに守り続けた。
そしてロンドンで「ソウルシティ」というレコード屋を営んでいたBLUES&SOUL誌の編集者でもあったデイブ・ゴーディンは、北部から自分の店に来る客達がどうもロンドンの流行とは違うものを買っていく事に気付き、その現象を70年にBLUES&SOUL誌でノーザンソウルと名付けた。


アメリカでは60年代はまだまだ人種差別が激しく、白人が黒人のレコードを聞く事がほとんどなかった。
そんな状況の中、白人リスナー層にアピールし、ポップスとブラック・ミュージックのクロスオーバーを実現したモータウン・レーベルとその所属ミュージシャンは、多くの黒人ミュージシャンの憧れとなった。
そんな第二のモータウンを目指すミュージシャンの多くは、普段は工場なんかでハードワークして、やっと一曲レコーディングできるだけのお金を貯めて、全てを賭けてシングル一枚に魂を吹きこみ、成功を[夢]みた。しかし現実は厳しくいくら内容がよくても才能があっても自費出盤したレコードは、コマーシャルされる事も流通にのる事もなく大抵の場合、ローカルで少しだけ売れて終わった。

60年代後半に入りレアソウル熱の過熱するイングランド北部の熱心なDJもまたさらにレアなお宝発掘と言う[夢]を見てアメリカへ飛び、人知れずレコード屋の倉庫の奥で眠り埃を被っていたレコードに初めて日の目を当てた。

奇跡的に出会った二つの[夢]はイングランド北部のクラブに持ち帰られ、さらに多くの労働者達に喝采をもって受け入れられた。
そういったクラブにはイギリス中から同志達がその「夢」を体感しに集まった。アメリカのハイトアシュベリーではピッピーをどれだけ愛しているかを示すために小銭を恵んでやらなければいけなかったらしいが、ノーザンソウルの世界ではその曲を愛しているならどこへでも足を運ぶのが普通だったのだ。

ノーザンソウルのノーザンはイギリス北部を指し、ソウルはマスメディアによるコントロールを嫌い、自ら信じる音楽で週末踊り狂う事に情熱を捧げた若者達の魂を指す。
ノーザンソウルは一音楽ジャンルではない。それは文化であり生き方の事なのだ。
そしてその魂はKEEP THE FAITHの合言葉とコブシマークの記号の元、イギリスではもちろん、ここ日本でも受け継がれ、現在も脈々と続いている。

「音楽聴きたきゃ、ライヴ来な。レコードは名刺代わりだ」とマイルスは言ったが、レコードを聞く為、それで踊り当時の若者達の気分を味わう為に是非、一度現場(クラブ)に足を運んでもらいたい。そこには熱い魂と忘れられたロマンがある。

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関西では幸いクラブもほぼ通常営業しており、ほんとに何一つ不自由なく震災前と変わらぬ毎日を過ごせています(変わったのはスーパーやコンビニに大きい水が売ってない事くらい)。
自分に出来る事のひとつにいつもどうりの生活を送る事があるならば、いつも以上にパワフルな日常生活を送りたいと思います。パワーの源であるファッションや音楽を楽しめる環境に感謝しながら。