黒の事
ブラックスーツも入荷で、この黒い服というものについて少し書きました。
日本ではブラックスーツは、昼でも夜でも問わずフォーマルで着ることが出来き、揺るぎない常識のように重宝されていますが、
歴史上、この黒が格式高いシーンに登場した当初は、非常に異端性の強いカラーリングでした。
黒がフォーマルに登場していったひとつの発端は、1789年のフランス革命で、『身分による衣装強制の廃止』が布告されたことにより、 それまで豪華絢爛を纏う貴族から、ブルジョワ色と軽蔑されていた黒が、徐々に社交界を侵食していきます。
もちろんそこには、前史的な価値への挑発的な要素がありました。
その同時期イギリスでも服飾における新しい時代が始まりつつありました。
ダンディズムの台頭です。
平民出身でありながら脅威的センスを認められた「ジョージ・ブライアン・ブランメル」が、先のフランスと同じように、ハデなスタイリングを侮蔑し、落ち着いた色調と清潔さからなるスタイルで、サロンの注目をさらっていました。
そんな新時代の価値に続いたのが、
『黒のリットン卿』でした。
本名、エドワード・ジョージ・アール・ブルワー=リットン。通称リットン卿。
政治家、小説家としても知られ「ペンは剣よりも強し」という有名な一文を残した人物と言われた方がピンとくるかもしれません。
彼は黒でまとめたスタイリングを好み、
サロンで異彩を放ちます。
ポイントはこの時期の黒を着る行為が
保証された価値や、常識からは程遠く、
非常に奇抜な個性であったことです。
もちろん奇抜故に多くの洒落者目に止まったでしょうが、
それだけでは黒は定着しなかったはずです。
それには彼の書いた小説が大きな役割を果たします。
1828年発表の小説 『ぺラム』
この主人公のぺラムが当時の「洒落者はこうあらん!」
といったリットン卿の服飾哲学を、
体現させた象徴的人物として、サロンを舞台に立回ります。
今も昔もやはりメディアの力は強力なんですね。
その物語中に洒落者ヒーロー・ぺラムが着こなす黒が、見事に現実世界にフォロワーを産んでいきます。
そんな『ぺラム』の序文に
「服装の心得22ヶ条」なるものがありますが、こういった格言みたいなのが、男は好きなんですよね。
しかしこうした影響により非常識が、
いつしか常識にすり変わっていき、
今の黒のフォーマルに対する基盤が出来ていったわけです。
いつも異端が時代を創る。といったとこでしょうか。
以下にその22ヶ条から、4項目を抜粋しました。
19世紀の洒落者だけでなく、現代に通用する内容だと感じます。
14,
服装において最高の優雅を生む原則は端正さだ。
最も下品なのは精密さだ。
→非常に同感です。
正しく整ったネクタイの結び目然り、
完璧な高さのポケットチーフ然り、
どんなに作り込まれた整ったスタイリングでも動きの中でそれは、必ず動きズレてしまいます。
しかしそれも気にならない自然な素振りや、正しく整った所作は、穏やかにして、余裕を感じさせます。
対して丁寧を越えて几帳面なまでの、精密に細かな作り込みは、小馴れた感覚とは程遠い田舎臭さを感じます。
ズレる度、タイを直し、チーフを直し、スラックスを引き上げ、完璧を保とうとすると、大きなコトを見過ごします。
その仕草が野暮なわけです。
16,
「なんて上手に服を着た人だ」と言われてはいけない。
「なんてジェントルマンらしいんだ」と言われるようにするべきだ。
→服を着るだけでは、本質は何も変わりもしないわけで、そんな状態で着ている事を誉められているようでは、主役は所詮洋服の方に軍配が上がっています。
服はなりたい自らのイメージを手助けしてくる相棒であって、相手に残すべきは服の印象でなくて、洒落者としての印象。
スタイリングの期待を裏切らない、仕草や言動こそ、鍛練しなくてはならないわけです。
22,
くだらないことをくだらないとしか判断しない人間はくだらない人間だ。
そこから何らかの結論を引出したり、あるいは長所を見出したりできる人間は哲学的だ。
→ 美学を感じる非常に深い一文です。
自分がくだらないと感じる物事は、
大体の場合それを知らないだけや、
学ぼうとしないだけで、
自分の小さな枠に閉じ籠っているような状態です。
自分の既に知っている世界の、外側に目を向ける事が、自らをちっぽけさを壊してくれるんだと感じます。
新たな価値に可能性を見いだす姿勢は、モッズにも通じるものを感じます。
と、このように刺激的なぺラムのこだわり。
これを踏みしめて新たなブラックの価値を、21世紀のダンディを自認する自分達が切り拓かなくては!と感じます。
写真の最後は、そんな脈々と続くダンディズムの20世紀の最高峰、ジェームス・ボンドのブラック・スーツで〆